Ryota Blog

日々思ったこと、感じたこと。

学校の意義とは

 

インターネットが普及して得られる情報は平等に民主化されてる。
受験を見据えているのなら予備校や塾に通えば入試で得点を取ることに特化した講師の授業が展開されてる。
なにかを一緒にする仲間が欲しければSNSを通じて簡単に集めることができる。

ここまで発展した世の中で学校でしか受け取ることのできない価値ってなんだろか。

いわゆる現在の"学校"という場所は大雑把にいうと、
①一定年齢に達した子どもを
②一ヶ所に集めて拘束し
③同一科目を同一時間学習させる
といった性質がある場所かなと。
で、学校制度肯定派の人に言わせるとこれらそれぞれにいい点があるらしいのだけれども、理屈人間の僕は少しばかり反論したくなる。

①②について
学校肯定派の人によると"様々な人"と接することで他者と関わるための"社会性"が育まれるそうだ。
んー。
ゼロじゃないかもね、たしかに。
でも、聞きたいのはどこにその"様々な人"がいるというのってこと。
たとえば一般的な公立学校だと同じクラスのなかにいるのは同じ地域から集った同じ年齢の子供なわけでしょ。
どこに"多様性"があるの、と。
いわゆる"社会"には本当にいろんな人がいるでしょう?
赤ん坊、高齢者、正規雇用者、非正規雇用者、失業者…
挙げ始めればきりがないほどいわゆる"社会"にはほんっっっっとにいろんな人がいる。
生まれた場所、国籍、宗教、職業、収入、性別、年齢、信条…
学校で受け取れる多様性は本来の社会の多様性には遠く及ばない。
ましてや同じ年齢の子どもを同じ場所一ヶ所に集めて閉じ込めることで受け取れる多様性なんてお笑いだ。
むしろ同じ年齢の子供を同一学年として生活させて他学年つまり他年齢の子供を異なったものとして認識させ、日本の幼稚なエイジズムを助長しているようにさえ思える。
多様性を売りにするのにはその肝心な多様性が学校内には足りてないかなと。

もう一つ言い分として、「社会に出たら嫌な人と付き合わなければならない時もあり、それの練習だ」と言うものがある。
これも分からんではない。
たしかに世の中には意見を異にする人だらけだ。
そして、話し合いなどを以ってその人たちとの関係を取り持つということも概ね賛成できる。

け!れ!ど!

なぜ「逃げる」という選択が許されないのかが分からない。
現実問題、嫌な人とは関わらず距離を置く、つまり逃避するというのは立派な人間関係の戦略だと思う。
でも学校の学級制はそれを許さない。
一度同じクラスになってしまえば、いじめっ子とも"うまく"やっていかないといけない。
たとえ暴力を振るわれようと金銭を要求されようとも逃げる事は許されない…
このクラス制の悪影響って僕が思うに日本の自殺率の高さに見れるのかなと思う。
本の学校で育った人って逃げることが苦手なのかなって。
みんな逃げることが許されないと思ってるのかなって。
数パーセントの成功者の語る「立ち向かえ主義」に振り回されて逃げる事は背徳だと学校で刷り込まれ、追い込まれ行き場をなくし挙句、命を絶つ。
逃げることを知っていればそうならなかったのかもって思わずにはいられない。

学校が主張する「社会性の育成」はまあ全くもってゼロってわけでもないのかもしれないけど、このままじゃあなあというのが率直な気持ち。

③について
同一科目を同一時間学習することについては昔から周りの友達もみんな言っていた。
「こんなん大人なっても使わんやん」
まさしくその通りだった。
僕の日々の生活の中に限っていうとたとえば多面体の角度を求めたり、中世ヨーロッパの覇権争いの歴史が役に立ったりすることはほとんどない。
ましてや、インターネットの普及で分からないことがあれば数十秒もあればスマホでその情報に楽々アクセスできるようになった。
しかしながら今でもそういった学習は学校では義務とされている。
なぜこれを"義務"として暗記させられてたのだろうか。

学校制度肯定派の人の主張はこうだ。
「基礎教養を身につけることで幅広いものの見方ができるようになり人生が豊かになる」
オーケーオーケー。
言い分は分かる。
でもその基礎教養とは本当に子供達みんなが必要な基礎なのかな?
例えば、カメラの講習会に参加するのはどんな人でしょうか?
カメラを上達したい人、方法を学びたい人。
ではでは、英会話教室に通う人は?
もちろん英会話を上達したい人でしょう。
みんな必要なことによって学ぶ場所を使い分けるのが普通だと思う。

だったら学校に行く人は?

理由は様々でしょう。

理科の勉強をしたいから。
友達と話すことが好きだから。
給食が好きだから。
義務だから。

いろんな目的を持った子供を一ヶ所に一定時間拘束するのだからそれなりの理由があるべきなんでしょうが、やってることはその全ての子供に必要なものとは思えない。
ましてや、その必要でないもので子供たちを点数化し評価することに妥当な理由などあるものか。

基礎教養を身につけることはたしかに必要だと思うけども、全員が一定基準をクリアしなければならない、評価され順位づけされなければならないという理由が分からない。
たとえば、サッカーが好きで仕方がないこどもにとって、植物細胞の各部位の名称を覚えてテストで満点を取ることはことは"その子供にとって"無意味だ。

ともあれば、学校ではあれもこれもやろうとせずに子供がいずれ必ず身につけなければならないことに絞って指導し、残りの時間は好きなことに費やす有意義な時間として解放してあげるべきではないだろうか?
子供がいずれ身につけなければならないこと、例えば「税金の仕組み」「選挙の行き方」「確定申告の仕方」「ローンの組み方」「犯罪防止」など、これらのどの子供にも必要になる可能性が高い事項こそ学校で子供を拘束することのできる理由になりうるのではないのでしょうかね。

(現状の)学校ってほんまに必要なんやろうか、と最近はハテナだらけで暮らしています。

日本人は礼儀正しい??

 

アメリカ留学から帰ってきてからバラエティ番組を尽く見なくなった。
人をこけおろし、バカにして笑い者にするというのがどうも気持ちが悪く感じるようになった。
個人が個人として認められること、体型や人種やカラーや宗教などなどがその人のもつギフトとして尊重されることが当たり前のアメリカで生活したことで、日本の"違うことを笑う文化"が本当に胸糞悪く感じるようになった。

アメリカでは色んなバックグラウンドを持つ人がいて違うことが当たり前でそれを"個性"として尊重しあい、時には"強み"という自分の武器に変えて違うことを認め合うというのが当たり前だった。
僕自身、遠いアジアの島国日本出身で英語も"それなりに"の程度のマイノリティーだったけど、それでも僕の英語や僕の出身地について面と向かって悪くいう人はいなかったし、ましてや笑って馬鹿にする人なんかいなかった。
僕が話し始めると耳を傾けて聞いてくれて、僕の言いたいことが伝わらなければしっかり聞き返してくれる。
僕が留学生でお客様みたいな立場にあるからそうっていうわけじゃなくて、誰に対しても面と向かって接するときは本当の意味でリスペクトしあって接することが当たり前だというような文化土壌がアメリカにはあった。
その環境では安心して自分の意見を言うことができたし、僕はそれが好きだったな。
自分がRyotaとして、アジア人としてでも留学生としてでもなく"Ryota"として尊重されていることが本来はスタンダートなのかもしれないけど嬉しかった。

一方、日本に帰ってきてバラエティ番組を見て嫌になったこと。

[帰国子女タレントのネイティブライクな発音をなぜ笑う?]
これはアメリカに行く前にもちょっと感じてたことなんだけど、なぜ帰国子女タレントが番組中に英語の単語をいわゆる"いい発音"で発生したときに他のタレントは寄ってたかってその発音を「腹立つわ〜」や「アメリカ気取ってるわー」などと言ってバカにするのか。
その帰国子女タレントはなにか間違ったことを言っているのだろうか?
ネイティブライクな発音は笑いに変わるようなおもしろいものなのだろうか。
モノにはそれぞれ名前があって、その名前に応じて音声が与えられる。
例えば僕も「りょうた」という名前でそれは「りょうた」と発音する。
これが僕の名前だから。
それを仮に「ポチ」であるとか「ケン」であるとか発音されるとそれはそれはいい気持ちはしない。
僕の「りょうた」という名前には「りょうた」という音声が与えられてるから、これを勝手に「ポチ」という音声にすり替えられた日には黙ってないだろう。
ちなみに僕の名前の最初の「りょ」、この音はアメリカ英語にはない音のようで初対面の全員が発音に苦労していた。
頑張って発音してくれるのだけどどうしても「ようた」や「じょうた」と聞こえる音しか出なかった。
まあ言語によって使う音も違うから当たり前といえば当たり前か。

話が逸れたが、つまり言いたいことはモノの名前にはそれに合った音声が当てはめられているということだ。
帰国子女の彼ら彼女らにとって"dog"は"dog"であり"dog"と発音されるべきもの、決して"ドッグ"ではないということだ。
"dog"は"dog"と発音されて初めてその意味を持ち、逆に"ドッグ"と発音されればそれは彼ら彼女らにとっては"dog"ではなくなる。
帰国子女である彼ら彼女らがそのモノの名前を本来の音声を使って発声しただけなのにそれをなぜか「腹たつわー」「気取ってるわー」とバカにして笑いを取るバラエティ番組にはほとほと嫌気がさした。

[海外出身者の片言日本語をなぜカタカナ表記にするのか]
よく海外出身の人に街頭インタビューをするなどという企画がバラエティにある。
その時、画面に出ている字幕なのだけども、カタカナ表記になっていることが多い。
なぜ同じ日本語を話しているのに海外出身者の話す片言の日本語はカタカナ表記にするのか?
違う言語を話しているわけではない。
日本国籍保持者が話している日本語も海外出身者や旅行者が話しているのもどちらも"日本語"であることに相違はない。
発音が訛っている日本語は日本語じゃないのか?
日本語だ、正真正銘。
なのになぜかそういったインタビューなどでは字幕がカタカナになっていることが多い。

なぜだ?

日本語を勉強し日本語を人前で話している海外出身者を"異質なもの"として、それもポジティブな意味ではなくネガティブな意味としてバカにした最悪なものだと思う。
考えてみてほしい。
あなたが今、異国でインタビューを受けて曲がりなりにもその国の言葉で受け答えしたのに、テレビの放送を見ると、自分の発言はその国の文字ではなくただの発音記号にすり替わっており、スタジオはあなたの発言内容ではなく、うまくない発音について笑っている。
考えただけでも怒りを通り越して悲しい。
せっかく勉強して、苦労して習得した外国語を笑いの種にされる。
こんな仕打ち、僕は耐えられない。
単なる人権侵害だ。
こういったバラエティを作るやつらは自分たち以外を、人間だとすら思わないのか?
笑いのためなら、評判のためなら人権なんてどうでもいいのか?
日本人の人権意識の低さが露呈している部分だなと感じている。

以上2点を含めて、日本人の人権意識の低さが垣間見える場所の1つがバラエティ番組だと僕は感じる。
他人の体を痛めつけさせ、相手をコケにし、プライベートに口を出す…

よく「日本人は礼儀正しい」なんていうけども、これだけ他者を尊重できない民族のどこが礼儀正しいのか、僕にはわからない。
これじゃあ安心して自分の意見も言えないよ。

日本のここがキライ

日本に帰ってきてから友達との食事が何回かあった。
そこで話題になったのがやはり"就活"。
少し日本を離れてモノの見方が変わった今、思うことひとつ。

日本の"したこと"で評価される文化がキライ。

聞けば就活では大学名だけでエントリーシートが除けられてしまうそうじゃないかい。

なんで重視されるのは"してきたこと"なのか。
なんで"できること"が重視されないのか。

してきたこと=できること

この等式は成り立たないと思う。
be able to と can は根本的に違う。

「高校では部活のキャプテンをした」
「世界一周をした」
「大会で入賞した」
「〇〇大学に入学した」

した、した、した、した…


だからどうしたと思ってしまう笑

もっと"なにができるか"とか"なにをしたいか"が大切にされればいいのになあと思う。

「フットワークが軽い」とは?

言葉の違和感。
「フットワークが軽い」ってどういう意味?
自分の中でだけど、「フットワークが軽い人」って"自分の"好奇心に素直な人なんかなと思う。
ここで重要なんが"自分の"ってとこ。
フットワークが軽いって言葉をよく聞くのがこんなシチュエーション。

《友達数人と行きつけの居酒屋でお酒を呑んでいて会話もひと通り終わり、もう1人招待しようということになった。そこでいつもの彼に電話をかける。彼の返事はイエス。電話を切った友人が一言、「やっぱあいつフットワーク軽いな」》

...
違う。
自分が考えてる「フットワークが軽い」とは断じて違う。
彼は本当に自分の好奇心でその場に参加することを決めたのか?

うーん。
仮にそのメンバーが彼にとってとても興味深い場所で珍しいお酒を呑んでいて彼の「知りたい、体験したい」という欲求が刺激されたならば話は別かもしれないが、よくあるシチュエーション下ではそんな風に感じたことはない。
いつもの場所、いつものメンバーで同じようなことを話しながら同じように時間を過ごす。
この状況でどこに好奇心が入り込もうか。
これは純粋な彼の好奇心にというよりは彼の単なるFOMO(Fear Of Missing Opportunity:置いてけぼりにされるのではないかという不安)からくる行動かなと思う。
つまりこの場合において彼の行動動機は「不安」であり「好奇心」じゃないかな、と。
こういう場面で自分はいつも心の中でツッコミを入れる。
「それはヒマなだけやん」と。

話がそれたけど、言いたいことは「フットワークが軽い」ってそんなに簡単なことじゃないってこと。
フットワーク軽く好奇心を追求するってすごくタフなことかなと自分的には思ってる。
だって好奇心って知らないこととか未体験のことに飛びこむことでしょ。
少なからずそこにはリスクがあるはず。
にもかかわらず自分の好奇心を満たすためにそこに飛び込む。
よっぽど自分のやりたいことを素直にできる自己肯定感が高い人じゃないとできないことかな、と。

まあ自分の「フットワークが軽い」の定義づけがこうだからそう感じるだけかもしれないけど、「ヒマ」と「フットワークが軽い」を一緒には扱いたくないな、とふと思った今日この頃。

ラスベガスで感じたこと

ラスベガスに来ていろんなホームレスと話しした。
彼らが言ってることが本当かどうかはわからんけど、意外にも元社長であったり企業の元上位幹部であったりホームレスになる前はいわゆる「成功してた」人が多いということが分かった。

彼らに共通している点がある。
「社会を強く憎んでいる」という点だ。
それは"今"彼らが家のない状況に置かれているからではなく、そうなる前に自分たちを救ってくれなかったからだと言っていた。

あるホームレスの話によると、彼は職を失ったあと家を保持し家族を養い続けるために補助金の申請を役所にしたそうだ。
しかし、役所の回答は「他をあたってくれ」。
色んな機関をまわり、たらい回しにされているうちに蓄えも尽き、家を失い家族を失って路頭に迷うことになったそう。
もともと上位的な職についていたプライドの高い彼らがその間に受けた恥辱が彼らに社会を憎ませていると、そう感じた。
そんな彼らが今、社会にできる復讐が「存在し続けること」だそうだ。
自分たちが存在し続けることで社会は自分たちを問題として抱え続けることになる。
それが彼らができる唯一の復讐だと言っていた。
自らのプライドを捨て路頭で存在し続けるだけの復讐をするようになるまで彼らに社会を憎ませた社会。
深く考えさせられる会話だった。

「ホームレスの人々はIQが高い」
今回の旅で野宿をしたりしながら感じたことだ。
はっきり言って道端で眠ることは容易ではない。
ましてやその環境で生き続けることなどそこらへんの学生には到底不可能だ。
ホームレスの人たちは昼間に空き缶を拾い役所に持っていきお金に換え、靴を磨き、ゴミ箱に捨てられた新聞を拾い売り直しお金に変えその日をなんとか暮らしている。
自分たちに出来る数少ないことでなんとか必死に日々を作っている。
つまり何か新しいことをしてお金に変えるのではなく、今あることをフルに使ってなんとか生き延びている。
「彼らがIQが高い」と言った所以だ。
本当に想像力がある人は他の人にとっては何もないように見えるところからなにものかを生み出すと言う。
何もないように見えて、ホームレスの彼らには「知恵」がある。
その知恵を振り絞って今日も彼らは存在しようとしている。
生きていくということは僕らが思っているほど楽ではない。
簡単ではない。
環境が僕らを勝手に生かしてくれているだけだ。
僕らのうち、どれくらいの数が本当に生きようとして知恵を絞っているだろうか。
本当に生きているのは僕らのうちのどれくらいだろうか。

人に依頼する時重視することって

自分自身が人に何か聞いたり教えてもらおうとしたり依頼しようとする時、なんの基準でその人選んでるんやろってずっと言語化出来ずにいたけどやっとわかった。

『1人でいる(作業する)姿が想像できるかどうか』が自分の中で基準になってる。
その姿を想像できへん人間になにかを頼ったことってない。
たとえどれだけ詰まった状況であっても。

バイト漬け、なんのため?

「バイトあるから遊べへん」ってよく分からん。
アルバイトの本質って基本的には「時間の切り売り」やと思う。
スキルある系は別として、ほとんどはその場所に滞在した時間に見合った対価を時給として受け取る「時間の切り売り」。

じゃあ何のために自分の時間切り売りしてまでお金稼いでるのかな、と。
お金より大事なものを得るためにお金ってあるんじゃないの。
人によってその大事なものは家族との時間であったり自分の趣味であったり友達との交友であったり様々やろけども、少なくとも自分の時間の切り売りがお金より大事なんてことはないと思う。
だって「時間の切り売り」はお金を得るための手段やもん。
手段が目的より大事なんてそんなバカな。

そもそも「自分で稼ぐ」って時間の切り売りじゃなくて自分に価値を与えてそこから対価を得ることじゃないの。
「バイト忙しい」っていう人がやってるのってほとんどバイト先に自分の「時間」を売りつけてるだけで決して自分の価値の対価を受け取ってるわけやないと思う。
バイト先は「時間」の対価を払ってるにすぎない。
「時間」なんて誰でも持ってるし、バイト先からしたら、多分他の誰の時間でもええんやろな。
それって「稼ぐ」ってよりも「搾取されてる」だけでじゃないのかな。

自分もまだまだそれほどの対価なんて見込めへんけども、やからこそ搾取される時間は最小に収めて、浮いた時間で自分を広げたい。

目的もないのにひたすら自分の時間を売りさばいて稼いだつもりになってる人って好きじゃない。